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京都アニメーションの放火事件からみる言葉の重みと軽さについて

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  京都アニメーションが放火されて33名もの方が亡くなるという痛ましい事件が起こってしまいました。

 

とんでもない事件です。


放火した人物は自身の作品がパクられたと言い張っての逆恨み。

 

ただ京都アニメーションに勤務した実績もなく、埼玉県在住という事実から信ぴょう性に乏しいとしか言いようがない。

 

そして余りにも残念な事実が、この事件によって失われたものは世界が認めるアニメーション会社ということです。


世界中がこの会社が発信するコンテンツを楽しみにしていました。
京都アニメーションは世界の人々に娯楽という「幸せ」を届けていたのです。

www.kyotoanimation.co.jp

 

 

世界が認める京都アニメーションのコンテンツ

 

200人ほどが在籍するこの会社は手書きのコンテンツという繊細なアニメーションを提供し、作り込まれた世界観が特徴で多くの作品が高い評価を受けていました。

 

日本が世界に誇る「マンガ文化」のなかで、京都アニメーションは世界に知られる製作会社だったのです。

 

それがたった一人の男の逆恨みによって失われたものは計り知れません。
いや、正確にはもう戻ってこない。

 

ハコやものは時間をかければ元に戻すことができる。
ただし、製作に携わっていた人たちは戻ってこないのです。

 

専門的な分野で、機械や他人が真似できないスキルも多くあったでしょう。
京都アニメーションではそんあ技術の継承を時間をかけ次世代に継承していると報道されていた。

 

一本の糸のように脈々と受け継がれるそのスキルや思想は取って代わるものはいない。

 

今回の事件でその糸も切れてしまいました。

 

すべての人たちが無事であったなら、再開にむけて取り組むことも出来たでしょう。

しかし、会社を支える優秀な人物たちが一挙にいなくなってしまった現実は、経営者を途方に暮れさせてしまうことは容易に想像できます。

www.sponichi.co.jp

 

もし私が残された身としたら、絶望以外のなにものでもない。
毎日、悲しみに暮れます。

 

世界が認める京都アニメーションのコンテンツがこのような形で世の中に発信されなくなること自体、ありえないことなのです。

 

パクられるという考え方について

 

パクリ-かすめとること。アイデアなどを登用すること。

(参照:ぱくり(パクリ)とは - コトバンク

 

ブログを書く身となって我が身のように考えられるのだが、文章や言葉がパクられることは日常茶飯事だと思う。

 

そして犯人の動機が「小説をパクラれた」という。

 

パクられるという言葉が合っているかも分からない。

 

文章や言葉は一つの事実について、あらゆる人間の感性によって表現されるからだ。

 

100人いれば100通りの表現方法がある。

 

まったく違う考えもあれば、ほぼ同じ考えもあるのだ。
それでも完全一致ということはなくすべて何かが違うものだ。

 

人には今まで生きてきた人生あり、そのバックボーンによって思考が形成させる。
また、国・宗教・言語・教育など地域性による特徴もあることだろう。

 

あらゆる要素が絡み合い文章や言葉で表現されるものは、同じ言葉であっても表現者の思想があるものは違いがあるはずだ。

 

逆に違わないとすれば、何の考えもなくコピペのように他人の物を写しただけの文章だということだ。それこそパクリだ。

 

では今回の事件でパクリが本当にあったのだろうか。


そんなことは断じてない。

 

ありえるはずがないのだ。


一つの作品として作り出されたものは、間違いなく思想が含まれている。

多くの人が携わって完成した作品に一片のパクリもあり得ない。

 

犯人の動機は言いがかりとしか言えない。
あまりにも身勝手だ。

 

同じ言葉でも軽い場合と重い場合がある

 

”言葉” と ”文字” は人の思いを相手に伝え、後世に伝えるために人間が持ちえた高度な"技術"です。

 

”言葉”は時と場合によって重みは全く違ってきます。

 

例えば、意思を持たない行動を伴わない言葉は軽い。

 

何の変化も伴わないからです。

誰も影響を受けないし、言葉を発した本人すら影響を受けない。

 

しかし、意思を持ち行動を伴う言葉は重い。


何らかの変化が伴い、場合によっては他人の人生まで変化させることもありうる。

 

最たる例は、国のトップ(大統領や首相)が交わす言葉だ。

一言で国の方針が決まる。

その一言を発するまでには多くの時間と思想が入り混じってのことだろうが、私たちに届く言葉は一言だ。


軽そうに見えてあまりにも重い。

その一言で国民を巻き込んで国の方針が決まる。

 

では今回の事件で”言葉”によって変化したものがあったのだろうか。

 

パクられたというものの、犯人自身の人生に何らかの変化があったのか。

犯人について私は知らないが、とても変化が起きて不利益を被ったとは思えない。

 

そして言葉ではなく暴力で表現した。

 

言葉を失ってしまったのだ。どうすることも出来ない。

何を言っても言葉が届くことはないだろう。

 

言葉を失った人たちからできる対策

 

言葉を失って暴力しか表現できない人たちから私たちができることは距離を置くこと。

それしか対策はない。

 

警察も無理だ。"事後"でないと対応できない。


警察を批判しているわけではない。"事前"を拾うほど彼らは暇ではないのだ。


法治国家だから事実に基づいて処理するしかないのだ。"未然"や"未遂"だとできる対策は限られている。

 

しかし、当事者の私たちは"事後"では済まされない。
なので逃げるしか方法はないのだ。

 

考えてみると言葉が通じなくてトラブルになるケースと言うのは少なくない。

少しの行き違いで他人を怒らせたり、無神経な態度によって怒りを覚えたりすることはよくあることだ。

 

私たちはそういう場には立ち会ってはいけないのだ。

何も良い結果は生まれない。

 

逃げることが出来ればまだ良いほうかもしれない。

 

今回の事件はあまりにも突然すぎて逃げることも不可能だった。

どうしようも出来ない。

 

そんなあまりにも残酷な状況のなか亡くなった方たちがいると思うといたたまれないのだ。

 

このニュースを見て聞くたびにつらい気持ちになる。

 

願わくば、どうかまた京都アニメーションが完全復活して、以前と変わらない素晴らしいコンテンツを世の中に配信してくれることを祈るばかりです。